「男らしさ」への嫌悪〜ニッポンのミソジニー感想まとめ〜2011年08月19日 19:28

 女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜(上野 千鶴子)
前回の続き。 女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜(上野千鶴子)の読書感想文です。

いまいち内容を理解しきれないまま読み進めて終章。最後に「男の自己嫌悪」として、女性が感じるミソジニーである「女の自己嫌悪」の男性バージョンについて論じています。
ここで多用されるのは、「草食系男子の恋愛学」で有名な森岡正博の引用をもとに男の自己嫌悪について論じています。そのうえで男にも自己嫌悪はある。そのとおりだろう。だがそれにも二種類の自己嫌悪がある。一つには自分が男であることへの。もうひとつは自分が十分に男でないことへの。(p268)しかしながら、本書では「男性の自己嫌悪」についてはあまり深く触れられておらず、書かれていることも正直要領を得ていない。個人的に一番興味をそそられるところが「回避」されており、大いに不満です。
そんな消化不良気味の「男性の自己嫌悪」ですが、本書の概念に加え「ミソジニー」の対義語である「ミサンドリー(男性嫌悪)」という単語を使うことで、下表のように考える事ができます。

  男性 女性
ミソジニー 女性嫌悪 自己嫌悪
ミサンドリー 自己嫌悪 男性嫌悪
その上で、「男の自己嫌悪」とは何なのだろうか?「男らしさ」は、身体の安全を省みない無謀さや勇気(p269)という言葉で説明される他者および自己身体への暴力的な関係であり、身体への過度の配慮は「怯懦」「女々しさ」「懦弱」など、「男らしさ」の欠如と見なされる(p270)。とあります。しかし、そんな「男性性」を、女性は嫌悪し続けているのでしょうか?
「男らしい」という言葉が女性から男性への褒め言葉として多用され、逆に「男らしくない」という言葉が貶し言葉として多用されている以上、「常に嫌悪し続けいる」とはいう結論には無理があります。
上野が先に論じた「二種類の自己嫌悪」ですが、男性の対称である女性ですら「男性が男であること」「男性が十分に男でないこと」の双方を嫌悪しているのか?甚だ疑問です。

上野は、森岡正博がいう「フェミニズムの持つ男性存在否定のメタメッセージは拒否しなければいけない(p271)」というフェミニズム批判を誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。(p271)という表現を使い、誤解を解こうとしています。上野千鶴子はこんな上目遣いの表現をする人間だと意外に思ったのですが、しかしながらフェミニズムが目指すとおり、当の女性は等しく「男性性」を否定しているのか?また「男性性の否定」を期待しているのか??そんな事は無いでしょう。
そう考えると、やはり上野が振り回すフェミニズムは、実態が伴わず女性からの支持を得ていないシロモノ以上の何ものでもないと誤解してしまいます。

ここから先の文章は、「男の自己嫌悪」という章立ての割には「ミソジニー」と「ミサンドリー」を取り違えているような訳の判らない論評が続きますが、我慢して最後まで読み続けていると、最終ページで、杉田俊介の発言を長く引用して「ポスト男性運動」的な状況とも言える現在、男性性に関して、再び、バックラッシュ、非モテ、草食系男子、動物化、オタク、ライトオタク、子どもポルノ、疑似子どもポルノ、DV、加害者臨床、性犯罪者の更正または規制、等がトピックとなります。それらの一部は、表立っては男性運動とは名乗らない(あるいは自覚のない)男性運動にも見える。
しかし、それらの個々の流れを、相互に結び合わせる太い水脈は、まだ発掘されていません。これらの論点を統一的に論じ得る男性性の理論が不可欠なのではないか。(p272)
、その発言内容を肯定しています。
「男性性」に対する違和感を多少実感する私も、そのとおりだと思います。その上で、上野は最後の一文で男にとっても自分自身と若いする道がないわけではなかろう。それは女性と同じく、「自己嫌悪」と闘うことのはずだ。そしてその道を示すのは、もはや女の役割ではない。(p272)と最後を纏めています。

確かにフェミニズムを通じて女性が自分自身への和解は進んだかもしれないし、社会も(まだ完璧ではないとの批判はあるにせよ)以前に比べれば男女のフラット化は少なくとも「マシ」な方向には進んだように思います。ただ、男女のフラット化の進行に伴って顕在化してきた「男の自己嫌悪」を感じる男性(森岡正博も度々論じている「草食系男子」など、その最たるもでるであろう)の困難に対し、あまりにも「鈍感」である。男の自己嫌悪と闘うのは男だけではなく、女もその闘いから免れない。百歩譲って仮に「男しか闘えない」ものだとしても「女は闘わない、闘うべきではない、その理由」を十数文字でいいから説明するべきであったと思います。

この最後の一文で締まった、本書から導き出される結論は「これじゃあフェミニズムは誤解されるし、今後も誤解され続ける」でしょう。
いろんな意味で、「不快な読書体験」でした。ただ、私が感じた「不快さ」は、上野が期待した意味での「不快さ」とはだいぶ違う向きを向いているように思われます。