杉田俊介「非モテの品格」感想前段:男の自己嫌悪は「ミサンドリー」2016年12月22日 22:25

最初にお断りというか、「非モテの品格」の感想をまとめるに1点自分が留意しないといけない事。 社会的にも当事者的にも自分自身は「旧時代(ゼロ年代以前)」の人間である事を弁えておかないといけません。逆に言えば、結婚してなお、ゼロ年代の「非モテ」意識をきずっているともいえます。 そのような立場で書かれた感想であり、人によっては「成功した人間の上から目線」を感じるかもしれません。そこはご容赦ください。
という訳で杉田俊介「非モテの品格」を読んで、色々考えてました。正直この本、コメントしたいところが多すぎて収拾がつかない。本は写真のようにもうボロボロの付箋だらけでです。
同著の感想をまとめようとしましたが、とてもまとめ切れません。そこで、今回は「非モテの品格」のベースになる「男性の自己嫌悪」について、「自己嫌悪」に「ミサンドリー」とルビを振ったあたりの感想を纏めてみたいと思います。

同著の感想をまとめるのに手詰まり感を覚え、前買った「フェミニズムはだれのもの?」(人文書院)の森岡正博と杉田俊介の対談を読み返してみます。
「フェミニズムはだれのもの?」で森岡正博が

ただ、私としては、男性の身体の否定性の問題を、あまり普遍的なものとして捉えたくはありません。(p184)
と発言。この対談があったのが2009年、まだ「非モテ」と括られていた男性層をめぐる議論が、「電車男」や秋葉原事件に強い影響をうけていた時代の頃。森岡正博による「草食系男子」論で関連する困難の試みられていた時期です。
この部分にしおりを挟んでました。
どうしてこの部分にしおりを貼ったのか、当時のことを思索してみると、フェミニズムやジェンダー論の議論では「男性が加害者であり、女性が被害者」という普遍的な枠組みがある中「でも男性だって生きにくい」と思っていました。そんな中、自らもフェミニズムの影響を受けた森岡正博が、その「男性加害者」モデルの適用の行き過ぎに警鐘を鳴らし、そこに強く共感したものと思われます。

一方、上野千鶴子が「ミソジニー(女性嫌悪)」が男性にとって女性嫌悪、女性にとって自己嫌悪と非対称に働くと「女ぎらい〜ニッポンのミソジニー」で発表したのが2011年。自分も同著を読み、「ミソジニー」を男女が感じる非対称さの概念がそのままで、プレイヤーだけ入れ替わった「男ぎらい(ミサンドリー)」という概念があるのではないかと思いました。
独身時代末期、色々拗らせていた中で同著を読んで、長い感想をブログに書きましたが、今でも「ミサンドリー」をGoogle検索するとこの記事が出てきます(何にもSEOはしてないのに・・・)。
「女ぎらい」で、上野千鶴子<はblockquote>男にとっても自分自身と和解する道がないわけではなかろう。それは女性と同じく、「自己嫌悪」と闘うことのはずだ。そしてその道を示すのは、もはや女の役割ではない。(p272)と言い遺しました。
そのような荒らすだけ荒らした当事者感の無い上野の姿勢に当時は反感も覚えたのですが、考えてみれば上野他女性フェミニストから男性の望ましい生き方を提示されても受け入れられるとは思えず、結局この問題は自分たち男性自身が考えていかないと血にも肉にもならないです。

あの読書体験から5年。 自分もかけがえのない人にも巡り会えたり、だいぶ境遇が変わってきました。
そんな中

しかし、それらの個々の流れを、相互に結び合わせる太い水脈は、まだ発掘されていません。これらの論点を統一的に論じ得る男性性の理論が不可欠なのではないか。(p272)
と纏められた男性の生きづらさの解きほぐし方についても状況が変わってきました。
「男の生きづらさ」を理論的に解きほぐす「男性学」それに呼応してか否か、ここ数年、男の生きづらさを男自身が振り返る綴る著作が増えて、男性学の「萌え」の時代が来たように思えます。ざっと思いつく名前を挙げても、田中俊之、二村ヒトシ、久米泰介、桃山商事、福田フクスケ・・・。
上野が言っていた「相互に結び合せる太い水脈」にだいぶ近づいてきたように思えます。

上野の「女ぎらい〜ニッポンのミソジニー」の最後に長く引用されていたこれらのセリフ、図らずも「非モテの品格」の著者である杉田俊介のものです。
そんな「非モテの品格」。17ページ「男たちの自己嫌悪 フェミニストたちの死角」の「自己嫌悪」に「ミサンドリー」とルビが振られている。
ド直球の豪速球ではないか。
これだ。この本を選んでよかった。