鉄道ジャーナル誌休刊に寄せて2025年01月29日 19:39

写真は我が家に唯一残る鉄道ジャーナル誌(2015年2月号)
・おことわり
自分は、鉄道雑誌は実物誌模型誌含め買わなくなって久しいです(だから雑誌が売れなくなるとの批判は甘んじて受け入れます)。また、以下本文で述べる通り、今回の文章は「定量的」な根拠に基づくものではなく「定性的・感覚的」な感想に過ぎません。
ですので、このほど休刊になる鉄道ジャーナル誌についての以下の文章は、「購読していない非当事者の立場」に過ぎない者の「感覚的感想」程度に受け止めていただければと思います。

・本章
昔、何かで読んだ文章の中で、「外国の登山記は定量的な記録に基づいて書かれている。それに引き換え日本の登山記は感想のようなもので満ち満ちていて参考にならない」という出羽守的なものがありました。暴論とも言えるこの論ですが、「定量的な裏付けがある記事はより正しく確からしい」と、自分の様々な判断基準に影響を及ぼしています。

そんな中、このほど休刊になる「鉄道ジャーナル」誌。鉄道雑誌の「御三家」(鉄道ファン・鉄道ジャーナル・鉄道ピクトリアル)の一角を締め、その中でも「鉄道の将来を考える専門情報誌」のキャッチコピーにみられるように、「硬派・社会派」を売りにしている雑誌です。
ライター諸氏の鋭い考察を含む記事は、昔(1990年代)に大学鉄道研究会を生きた身として「こういう記事をかける研究をしたい」と思わせるに十分で、また多くのメンバーもそのような思いを持っていました。
それは何故かと振り返るに、ライター諸氏の視点・考察力もさることながら「定量的な裏付け」に裏打ちされた論拠もあるためではないかと思います。

しかし、時が過ぎここ最近は「鉄道の将来を考える専門情報誌」の立場は、「鉄道ブーム」もあって最近鉄道情報を積極的に扱うようになった経済雑誌と被るようになってきました。入れ替わるように鉄道ジャーナル誌のコンテンツも定量的というより定性的・感覚的なものが多くなり(本屋で立ち読みしたり表紙の装丁を見て違和感を感じることが複数回ありました)その価値を減じてきたような気がします。

このようなことになった背景には「ジャーナル」誌を名乗る立場にありながら(取材協力とかの点で)「ジャーナリズム」な記事が書きにくくなっているといった点もあるかもしれませんし、「定量的な裏付け」のコスパやら受けが悪くなっているのかもしれません。また、経済誌のそれが「企業価値の最大化」の視点からのブレない定量的論述がしやすいのに対し、「鉄道ジャーナル誌」の場合、何をモノサシにするかが明確にできず、結果的に定性的・感覚的な記事に頼るようになったのかもしれません。これ以外にも、他にも理由があるのかもしれません。

・まとめ
鉄道ジャーナル誌が休刊になった後の世の中をどう生きるか?と書くと大仰かもしれませんが、雑誌チャンネルが1つ失われるのは確実なので、雑誌ならではの一覧性の減、興味ない分野への知見に接する機会の減を、他の方法で意識して補う必要性が我々にはありそうです。
その一方で、「鉄道ジャーナル」氏が欠けて以降も、同誌が培ってきた「定量的記述」に裏付けされた記事を土台とした、建設的な議論が活発に為されることによる、より豊かな交通文化の発展を願って止みません。