女ぎらい〜ニッポンのミソジニー〜(上野千鶴子) ― 2011年08月18日 11:51
今日は休日出勤の振替休暇で午前休み。
折角の平日休みでしたが・・・読書感想文を書くのに半分くらい使ってしまいました。
まぁでも一応書き上がったので、仕事逝く前に公開します。
上野千鶴子である。
しかも、本書は多くの読者にとって(中略)不愉快な読書経験をもたらすだろう。なぜならそれは多くの男女が目をそむけていたいことがらのひとつだからだ。(あとがき)
と、読者を挑発している。
「怖いもの見たさ」な気持ちが半分、「若干の生きづらさに対する答え」への期待が半分で、アマゾネスアマゾンから古本を購入。1ヶ月くらいかけて読んでみました。
そんな動機でしたので、自分の興味をそそらなかった章も結構あり、目は通したつもりですが一部頭に入っていない章もあります。
本書は、 日本におけるフェミニズム(カタカナ語のままの方が分かりやすいが、
もう少し丁寧に言うと、男にとっては『女性蔑視』、女にとっては『自己嫌悪』(p8)
と本書では訳されています。自分は男性であり、女性が感じる『自己嫌悪』に対するイメージはしにくい(男性が感じる『自己嫌悪』は、例えば「決断・思い切りのできない男性を『女々しい』『男らしくない』と罵られる」ことで比較的容易に実感している)こともあり、正直に言ってよく分かりにくい概念です。
だからでしょうか、それとも単に自分が不勉強だからでしょうか?本書の半分は「自分が興味持ってない事を熱く論じる空論」みたいに読めました。
しかしながら本書前半に出てくる「非モテのミソジニー」。性の市場が規制緩和緩和されるとは、男にもまたこの「対人関係の技術」が要求されるようになった(p57)
「全員結婚社会」が終焉した今日において、内田樹や古谷野敦のような男性論者が「誰もが結婚できた(せざるを得なかった)時代」へのノスタルジーを語り、山田昌宏と白河桃子が『「婚活」時代』時代を唱えるのは、時代錯誤と言うべきだろう(p58)
と、非モテである男性の「女の所有」への欲望を批判して切り捨てています。
その後も、「男性は女性の上位に立ちたがる・支配したがる・所有したがる」概念を、藤原紀香・陣内智紀元夫妻の例とか秋葉原事件とか勝間和代の「男性への要求」とか、ここ数年で起きた事件・話題をもとに批判しています。その割には、女性の多くが男のカンチガイを訂正せずに、誤解のまま流通させておくことに利益を感じている(p65)
事を掘り下げない等、当事者の片方である男性に対してのみ批判を繰り返しながら話は進んで行きます。
ところで。望ましい男女関係とは何でしょうか?上野が本章で説いているであろう事を自分の解釈でまとめると「『かつて定型があった』点で友人関係よりは僅かの容易な、しかしながら定型や利益配分がなく構築・維持が難しい対人関係」と言っていると考えています(※男性の友人関係は「男同士のホモソーシャルなコミュニケーション
」として本書において度々批判されています)
それでは、上野もスキルアップを説くこの「コミュニケーション」とは何でしょうか。コミュニケーションとは、甘やかな共感などではない。自我を掛け金とした命がけの駆け引きである。それがイヤなら、関係から撤退するほかない。(p71)
。なるほど。女性同士のコミュニケーションの成り立ちは全く判らないので論評を避けるが、男性同士のコミュニケーションは「俺達仲間だよな」なホモソーシャル的なもので済んでしまう面もあります。
何となく読めてきた。読めてきたと同時に、「コミュニケーションスキルによって本人が得られる『クオリティ・オブ・ライフ(※)』には差があり、その差は年を追うごとに拡大再生産される」の志向・量によって」いまを生きる男性の「絶望」が見えてきて暗澹としてきました。
(一応本書では他の資源のように計量化したり蓄積したりできるものではない(p70)
と、コミュニケーションスキルの計量化は否定しています)。
※クオリティ・オブ・ライフ:日本語に訳すと「生活の質」。医療の歴史とともに発展した概念であり、社会的にみて「人間らしい生活」と考える生活がどの程度実現しているか、を指標化した考え方である。医療など分野を限って数値化を試みる研究は多く行われている。
余談ですが、大学時代に自分の先輩が「クオリティ・オブ・ライフ」の概念を他分野に適用し、質的評価をを指標化・数値化する論文を書いて学位を得ました。いろいろ手伝った馴染みもあり、何となく「クオリティ・オブ・××」の指標化・数値化には興味があります)
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