失われたナンバープレートを求めて2015年07月05日 19:58

昨日の記事で、KATOのC12を買って、66号機のナンバーをつけよう、という記事を書きました。
そういえば、メーカー忘れたけど「C12 66」のナンバープレートがうちにあった(確か1日限定の「C121212」というナンバーも付いていました)はず。
そんな思いから、ジャンク箱をあらいざらいひっくり返してナンバープレートを捜索。
捜索ついでに、ジャンク箱の中に散らかり放題だった小パーツ類を、種類別に仕分けし、整理整頓をします。

その結果・・・・
出てきませんヽ(;´Д`)ノ

午前中で捜索は諦め、ジャンクを整理してもとの衣装ケースに収納。未組立のキットや改造ベースの完成品、組立途中で中断した半製品含め、すべてがこの箱の中に納まっております。
いやホントこれだけあれば一生楽しめそうです。それにしても良く積んだものですヽ(;´Д`)ノ

来週早めの夏休みを取り旅行に出ることから、少しの間更新頻度が落ちますので、ご了承ください。。。

2000年頃の那覇バスターミナル2015年07月07日 07:35

昨日も目一杯働いて、疲れて帰り。平日は帰って寝るだけの日々が続いております。来週早めの夏休みを取りましたが、こんな調子ではホントに休めるのか心配です。

それでも、胸張って休める毎年の夏休みは、例年少し無理して遠出の旅行をするのが習慣になっております。
今年も年に一度の長距離旅行を夢見て、旅行の予約だけは早々に済ませておき、仕事も夏休みを外れるよう可能な範囲で調整しました。
そんな今年の行き先は・・・
久々に沖縄旅行を奮発しました。

はじめて渡沖したのが就職して2年目の2000年(まだ25歳)。社会人になりまとまった収入が入るようになり、飛行機で行くような大掛かりな旅も手が出るようになりました。
2000年当時、まだゆいレールは絶賛工事中。バスとタクシーが交通機関の主役でした。

当時の那覇バスターミナルはご覧の通り。本島内各地に向かう路線バスがひしめき合っていますが、凄いのはその車両達!
バスファンなら卒倒待ったなしの素晴らしい車両達が踵を接して待機しています。
車体後ろのエンジンルームが大きく開いたモノコックバスも当たり前!2000年当時は、まだ1978年の「ナナサンマル(道路が右側通行だったものを、本土復帰に合わせて左側通行に切り替わった)」で一斉に導入した車両が大量に残っていました。
もう感激、感動。初めての沖縄では観光もそこそこにバスの尻ばかり追いかけていました。

あれから15年。
ひと昔半が経ち、世の中も自分も、大きく変わってしまいました。
まず日本や沖縄を取り巻く状況が大きく変わり、政治的な事もあり詳細は省きますがが、世の中の「空気」とその「認知」とががだいぶ変化したように感じられます。
島の交通も、モノレールが出来て、4社あったバス会社の半分が破産し(本土のタクシー会社が進出して両者とも買収した)、あれだけ残っていたナナサンマル車もすっかりいなくなってしまいました。15年の間、2010年2011年と2回沖縄に行きましたが、会社によってはナナサンマル車を保存の対象としており、それを友人達と貸し切りで走らせたりもしました

そんな自分も、15年経てばすっかりキモいオッサン。その間で遅い結婚をしたりダイビングのライセンスを取ったり、加齢以外にもやれる事やれない事など渡沖環境が変わりました。

いろんな話があるけれど、実際行ってみないと分からない。はじめての渡沖から15年、どんな風景がありどんな感想を持つのでしょうか。

楽しみです。

「ナナサンマル」2015年07月09日 23:30

昨日、酒席を一緒していただいた方が沖縄出身で、しかも携わる仕事の絡みか
「ナナサンマル」の意味を理解して強い反応を頂き、沖縄行目前に想定外の燃料を注がれました。

前回のブログ記事で「ナナサンマル」車の話を少し書きましたが、今回の更新では、ナナサンマルから17年経った2000年当時、ごくごく普通に活躍していた彼らを紹介します。

ますは那覇市内線を受け持つ那覇交通。2004年に那覇バスに会社が変わっています。
車両はナナサンマルの際いすゞに統一され、デコトラのようなバンパーを付けて那覇市内・近郊を運行していました。
写真 の1518号車は、近年の塗装塗り替えられた1台ですが、じつはこの車両こそが、沖縄本島の交通が一斉に左側通行に変わった1978年7月30日、那覇市内線の初便として左側通行に変わった那覇市内にはじめて繰り出した車両です。
この写真を撮った2000年当時、経営面では非常に厳しい環境に置かれていましたが、車両は再塗装され錆も無い姿で活躍していました。
バス趣味なるものが全っったく認知されておらず、交差点角の交番からでてきた「おさわりまん」にいろいろ訊かれたのも、いい思い出です。

次は沖縄本島に路線網を持つ琉球バス。こちらも2005年に琉球バス交通に会社が変わっています。青とオレンジで波を表現したかのような塗装が印象的です。
車両はナナサンマルの際に、日産ディーゼルと日野に統一。以前は島内の米軍スクールバスも受託しており、青とオレンジが入れ替わった塗装の車両も多数いました。

写真の車両は朝限定の急行バスで、太平洋側の具志川から文字通り本島を横断して那覇に着いたばかりの車両です。スコールのような通り雨を吸った路面に、「急行」サボも誇らしい車体が反射していました。


こちらは沖縄バス。ここだけは経営破綻せず戦後からの会社が存続しております。また、「ナナサンマル」車の取り替えも他社より進んでいるように見えました。
こちらは三菱ふそうに統一され、屋根後ろが丸い、1978年当時でも古めかしい当時でも古めかしいG4車体を持つ車両が導入されました。
後に1064号車が動態保存され、さらにバスコレで模型化もされ、全国的に有名になったモデルです。

最後は東陽バス。観光スポットの少ない沖縄東部を担当しています。車両は日野を選択、後年の車両更新で大型方向幕に改造された車両も多数いました。沖縄の車両板金・改造技術の高さを物語っています。
こちらも「ナナサンマル」車の1台(906号車)が動態保存されており、定期的に営業運行しております。

沖縄旅行2015-1 飛行機に乗るまでが旅行2015年07月11日 14:30

今年も、ありがたい事に年に一度の夏の旅行シーズンがやってきました。
今年は世の中が夏休みに入る前のオフシーズンに夏休みを取れ、土日を入れて5連休になりました。

栄えある初日、夜明けと共に始まる旅のスタートは。
いつもの宇都宮線始発、いつもの520M(いまは1521E、っていうんでしたっけ?)です。仕事が終わらなくて完徹してました(爆)
去年もこんな感じだったような。。。

で、行き先は沖縄。関東地方からですと羽田から飛行機に乗っていく必要があります。
一旦帰宅して家事をしてから、満を持して上野東京ライン、品川乗り換えのコースで出発。しかし。。。
10両編成の電車の車内は混雑、自分たちは大きなキャリーバッグを抱えていることもあり、ものすごく気兼ねしてしまいます。
そのため。。。
赤羽で上野東京ラインを放棄し、京浜東北線に乗り換えて浜松町乗り換えのコースに変更しました。
赤羽から浜松町まで、快速でも27分かかります。上野東京ライン開通の影響もあり、思ったより時間がかかっています

浜松町で東京モノレールに乗り換え。休日の11時ごろの便だというのに、割と空いていました。かぶりつき席をゲットできたのは良いのですが、品川に止まり浜松町を通過する上野東京ライン開業の影響を受けているようで心配になってきますが、東京モノレールと京浜急行の混み具合は、今年の春からどうなったのでしょうか。
大荷物を持って移動、ということもあると、荷物の持ち歩きやすさも心配されてもよいような気がします。
しかしモノレールの列車写真ってなかなか取りにくいです。

そんなこんなでやっと羽田到着。
飛行機を待っていると、日本国内では久しく見なくなったジャンボジェットを発見。しかも政府専用機でした。

はてさて、どんな旅行になるのでしょうか。

沖縄旅行2015-2 戦後70年、「ケービン」の痕跡を追う2015年07月13日 06:00

沖縄に着いた翌日は、妻の運転練習も兼ねて、バスではなかなか行きにくい、本島東部の海中道路方面を観光しましたが、その帰りに1箇所立ち寄りたいところがありリクエストをして寄ってもらいました。
少し古めかしいコンクリート造りの平屋建に、途中で切れた9本のコンクリート柱。
実はここが、戦前に沖縄島内を運行していた「沖縄県営鉄道」の終点、与那原駅舎です。
ここから、写真奥手の那覇方向に、鉄道路線が走っていました。

沖縄県営鉄道は、1914年に那覇から東海岸の与那原町まで開業し、以降南部の糸満市・中部の嘉手納町まで開業した鉄道です。
規格は、黒部のトロッコ列車なみの線路幅76cmと、線路幅が1m以上ある通常の鉄道と比べて小ぶりな「軽便鉄道」と呼ばれるもの。それが鈍って、「ケービン(軽便の訛り)」とも呼ばれていました。
いまでこそ沖縄本島各地は道路が網の目のように整備され、自動車で難なく物流を行うことができますが、戦前当時は道路も自動車も全く発達しておらず、那覇から本島北部への輸送はもっぱら船に頼っており、船の発着点として与那原町は大きく発展していました。
那覇・首里と東部の連絡拠点であった与那原を結ぶため、県営鉄道は最初に与那原まで作られたものと思われます。

鉄筋コンクリート製の駅舎から振り返ると、港までまっすぐ伸びる通りが駅を行き止まりにして伸びています。
全国各地の多くの鉄道駅がそうであったように、駅の建物を起点にしてまっすぐ伸びるこの通りは、まぎれもなくここが鉄道駅であったことを強く物語っています。

駅舎は、軽便鉄道にしては珍しいコンクリート製のものでしたが、ちょうど70年前の沖縄戦で破壊され、軽便鉄道自体もそのまま運行を終え、鉄道用地は道路や軍用地に、線路は軍用の鉄材に転用されて行きました。
与那原駅舎自体は(コンクリート製でしたので)骨組み等が残っており、これを再利用して与那原町役場庁舎に再築され、役場や農協の施設として使われていました。

現在、与那原駅舎は、与那原町で「軽便与那原駅舎展示資料館」として、軽便鉄道当時のコンクリート平屋建ての建物に建て直されています。
「途中で切れた9本のコンクリート柱」は、役場として使用されていた初代与那原駅舎の部材で、これだけは当時のものが残っていました。
展示館内は軽便鉄道当時の資料や備品類・再現ジオラマ、映像資料が展示されております。
展示館の入場券は当時の切符風、日付は本物の打刻機に自分で通して入れられます。

沖縄戦後の混乱で、なかなか当時の遺構が残っていなかったり文字通り地中に埋まっている沖縄県営鉄道の痕跡ですが、遺構も資料館として整理展示する枠組みができたこともあり、大事な資料としてずっと残していきたいものです。

一方の軽便鉄道の発着点である那覇、こちらはバスターミナルとして使用されています。
現在は・・・
バスターミナル自身が再開発の対象となり、閉鎖して工事中になっていました。